死因はインターネット

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何故「陰キャ」は「ロック」をすべきなのか?

 

陰キャならロックをやれ!!!」

 

 

表紙買いというものをしなくなって久しいのですが先日何年かぶりに表紙買いをしまして、「承認にまつわる病」斎藤環)という本を読みました。

承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

 

↑表紙の女の子から山田リョウと同じ波動を感じる。えっ、山田リョウを御存知ない?またまたご冗談を……

 

「承認」というワードから勝手に勘違いし、SNS時代のいいね中毒とかをバッサバッサ切っていくヤツかな〜〜なんて思っていたのですがSNSに魂を売った凡俗なので同じ穴の狢に精神的マウントをとる術と自らを戒める論理を常に求めているのである)マジモンの精神科医の人が引きこもりの治療(治療って言い方使っていいのかな?)を通じて感じた今の若者に見られるメンタル面の風潮やそれを引き起こす社会的な構造について割と真面目に語ってました。求めていたSNS中毒達の脳に突き刺すライムはまた後で探してみるとして表紙買い特有のワンナイトラブ的な出会いもまた一興ですね。

読んでみてふっつ〜〜〜に面白かったし事前知識とか無くても問題はありませんでした。それとサブカル方面にも明るい人で結構そっち系について論じた本も書いてるみたいなのでまた作者買いしてみたいな〜と思った次第です。でももう本のタイトルだけで騙されないぞ、「猫はなぜ二次元に対抗しうる唯一の三次元なのか」ってタイトルめちゃめちゃ気になるけど猫についての話は少ないって読書メーターたんが教えてくれたんだ。

 

様々な場所で連載したものを収録した本だったので内容が被ってる箇所が結構あったのですが、頻出していた話題として「キャラ」スクールカーストというものがありました。メインテーマの承認と密接に関わる話題なのでそりゃそうなんですけど……創作の登場人物である所謂「キャラクター」ではなくクラス内での「お調子者」「真面目で根暗なオタク君」のようなリアル中高生を拘束しつつあるものです。

 

読みながら「陰キャ発生の構造じゃん、ギャハハ、陰キャならロックやれロック」(ギャハハは言いすぎました)なんてことを考えたので読み終えた今、どうせなら!!!身につけた論理を出力して「ぼっち・ざ・ろっく!」について漠然と思っていたことについても語ろうじゃないか!!!!!と思い立ちましたので今回は陰キャについて学んだオタクが陰キャとロックについてを語ります。ここから本題!!!!!!!!!1年ブログ書いてんのに一向に!マークの量が減らない!!!!!助けて!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

ぼっち・ざ・ろっく! (1) (まんがタイムKRコミックス)

ぼっち・ざ・ろっく! (1) (まんがタイムKRコミックス)

 

ネタバレ……と言いますか割と一巻ラスト付近で起きたとこについて触れようと思うので初読の楽しみを奪われたく無い人は直ぐに買って読んで……それから戻ってきてPV数に貢献して下さい。推理小説を逆から読んでも楽しめるような狂人が万が一ここまでページをスクロールしてる可能性もあるので一応あらすじを引用しておきます。多分進研ゼミの広告漫画以外の娯楽に触れてないとそんな物語に鈍感なモンスターが生まれてしまうんでしょうね。

「ぼっちちゃん」こと後藤ひとりは、ギターを愛する孤独な少女。
家で一人寂しく弾くだけの毎日でしたが、
ひょんなことから伊地知虹夏が率いる「結束バンド」に加入することに。
人前での演奏に不慣れな後藤は、立派なバンドマンになれるのか――!?
全国のぼっちな少年少女に届ける、いま最高にアツい音楽漫画!!
陰キャならロックをやれ!!!

(一巻:内容紹介より引用)

 

陰キャならロックをやれ!!!」というパワーコピーとTwitterでよく貼られる鬱屈した一コマでおなじみの「ぼっち・ざ・ろっく!」。きららMAXにて連載中で先月一巻が出たばかりの今めちゃめちゃ熱い4コマ漫画です。

主人公の後藤ひとり(通称:ぼっちちゃん)は「孤独」って紹介されると誤解を招く恐れのあるレベルでガチコミュ障、Amazonレビューも皆コミュ障描写について語ってて面白いです。強く生きてくれ。ここではあえて彼女のコミュ障的特徴を陰キャと呼ばせていただきます。

 

さて、そもそも「陰キャ」とは何でしょうか?(フィクションについての文脈でキャラって言われると二次元のほうイメージしちゃいますけど上の文で触れたリアル人間関係における「キャラ」の話をします、フィクションにおけるキャラクター論については先生の著作への読み込みが足りないのであんまり触れたくありませんボロを出しそうなので)

ここからは斎藤環先生の言っていたことを自分なりに面白可笑しく解説します。

「キャラ」とはコミュニティにおける役割のようなもので、その場におけるコミュニケーションを円滑化する為に(作中ではあんまり例を出してくれなかったんですけど「あの子はそういう人だから……」みたいな共通認識が簡単にできるようにするようにって事でしょうかね)その人の本質とは無関係に与えられ(押し付けられ)ます。

恐ろしいのがキャラ=人格では必ずしもないこと。元々人格とは何か色々絡み合って……良い所もあるけどこの面では弱いよね……みたいな複雑なアイデンティティを持つものです。それをある特定の観点からでのみ評価し、それ以外の要素を削ぎ落すことで簡略化したレディ・メイドの仮面が「キャラ」となります。

そして更に恐ろしいのが現代において対人評価の基準は「コミュニケーション能力」一辺倒になっているということです。まじでふざけんなよ、なぁ、一生人間関係やってろ。クラスとか……これ以上やると自分にもダメージ来ますね……つら……

コミュニケーション能力という一つのパラメーターにあんまり能力値を割り振られなかった人は単細胞のバカ共に「陰キャ」の烙印を押され、スクールカーストの底に配置されてしまいます。

 

つまり「陰キャ」とは本来統合的なアイデンティティを持つ人格をコミュニケーション能力という観点で切り取ってしまった際の一つの側面でしかないのです。つまり別の価値観から捉えればその人は陰キャ以外の側面も持ちうることになります。

 

話をぼっち・ざ・ろっく!の方に戻します。

 

ぼっちちゃんの「陰キャ」以外の側面とは何でしょうか?自分的には卓越したギターの実力(デバフ付き)と(こちらはまだ弱いかもしれませんが)いざという時に一歩をちゃんと踏み出せる勇気だと思います。ここではぼっちちゃんのネット上でのハンドルネームをお借りしてギターヒーロー的側面でも呼びましょうか。

 

お恥ずかしながら自分は本作の途中までぼっちちゃんのことを「陰キャ」というか「面白変顔女」みたいな認識で読んでいました。言い訳させてもらいたいのですが作中で彼女のコミュ障さが度々ギャグとして(おもしろくて好きです)強調されていたんです。

言われてみればそうですね、先月までコミュ障でキョドってたキャラクターが最新号の未知のコマでいきなり「キリッ」としてたら「どなたですか……?」ってなりますし……

この構図は多分もし自分が次元の壁をぴゅんって取っ払ってぼっちちゃんと同じクラスメイトだった時に「後藤さんってちょっと暗いというか話しかけづらいよね~」って思っちゃうのと似ていますね、実際は読者である学校以外のシーンも目にしているので正確なセリフではありませんが……

 

でも彼女は「陰キャ」である以前に後藤ひとりという一個の人格であり、バンドを通じて変化ないし僅かながらでも成長しています。「承認にまつわる病」の文中ではクラスで与えられた「キャラ」を演じるあまり本来の自分が曖昧になってしまったりそのギャップに苦しんでしまうという弊害について触れています、これが行き過ぎると引きこもりの出来上がりってやつだ。

「ぼっち・ざ・ろっく!」作中で彼女はバンドメンバー獲得の為に勇気を出して人と関わろうとしたり、お客さんとの間に作っていた精神的な壁を取り払おうとしたり、かつては自身の承認欲求だけでやっていた音楽活動をみんなで一緒にという方向に心変わりしたり……「陰キャ」という仮面の下でこのような繊細な精神活動が行われていたのです。それなのに……自分は……

 

そしてその最たるものが12話のライブシーンです。自分はコレを「後藤ひとり夢女爆誕事件」と呼んでいます。この場面だけ普段の4×2のコマ割りをぶち壊した(まさにロック!)作画でここが重要なターニングポイントであるということは誰もが認めるはずです。

 

残酷な現実とぶち当たり調子の出ない結束バンドメンバーを鼓舞する為に、一番臆病なぼっちちゃんが先陣を切って気合の入った演奏をする……ここにあるのはただコミュ障が実はかっこよかったみたいなギャップ惚れ(惚れ?)だけに留まらず、いままでの成長の描写の伏線回収だけにも留まらない、何と言うかもっと文脈の詰まった何か……

気取った言い方をすると「陰キャ」の仮面を投げ捨て「ギターヒーロー」としてその力を発揮した、新しいペルソナを得た彼女、後藤ひとりという人格に対しての喜びないし祝福……みたいな?

 

一方から見ればコミュ障イキり陰キャかもしれない、そんな女の子でも輝ける場所がある、そんなテーマを思い起こさせてくれるといった意味で12話のあのライブは特筆に値するのではないのでしょうか。

 

 

もうちょっとだけ続きます。

 

 

作者のはまじあき先生は1巻発売直後のインタビューで「きららの女子高生だって学校以外に居場所があってもいい」と言っていました。コレはかなり作品の本質を突いてるんじゃないかな〜と自分は思います。

media.comicspace.jp

確かに学生のころは世界の中心は学校という何十、何百人しかいないコミュニティで、そこが全てだと勘違いしちゃうかもしれません。そこは今やコミュ力で殴り合う魔境、小粋なトークとキャラ弄りという薄っぺらいやりとりで居場所を確立できないコミュニケーション弱者は座して死を待つのみ……

 

だったら逃げちゃえばいいんですよね。(学校行きたくない人へのカウンセリングみたいなことを言ってしまったんですがこれは実際よく言われてるイメージありますね)

 

学校なんて偶然コミュ力の高い奴らにとって居心地がいいだけの環境に過ぎず、その外にはいろんな人物評価の価値基準があります。自分は同じロジックでインターネットにドハマりしました。

 

ぼっちちゃんはコミュ障故に学校という環境だと紛れもなく「陰キャ」になります、しかしメイン舞台であるライブハウスでは(コミュ力も確かに見られるけど……)バンドとしての演奏の腕が至上の価値を持ちます。

彼女は学校以外で居心地のいい場所と出会うことが出来た、そして先ほど述べたように陰キャ以外の自分として輝くことが出来たのです。こういうことだったのか……

 

 

話が少し逸れますが、そういったコミュニケーション重視のメインストリームへの逆張りとして「ロック」というのはかなりマッチした題材だと思います。下北沢というサブカル(メインストリームへのアンチテーゼ)の聖地を舞台に、特に主流社会に反旗し自己主張を行う攻撃的なジャンル(言葉のアヤです)としてのロック……ロックの特徴はその成り立ち故に他の、居心地のいい分野に逃げ込んじゃお~的側面の強いサブカルチャー(漫画やアニメみたいなイメージです、語弊があるかもしれない)と比べて「対抗」的である点だと勝手に思っているのですが、そのあたりぼっちちゃんの勇気といいますかヒーロー性を際立たせていますね。もしかしてぼっち・ざ・ろっく!にもそういったメッセージが……?(これは冗談です)

 

 

 

よし!まとめに入りましょう。

「ぼっち・ざ・ろっく!」という作品を象徴するかのような「陰キャならロックをやれ!!!」というコピーは一見すると単なるパワーワードの羅列に見えるかもしれません。

しかし、このコミュ障にはどうしても生きづらいご時世、「陰キャ」のレッテルを貼られて燻ってる人も少なくないはずです。そういった人を肯定し、しかるべき手段で輝きをつかみ取ることが出来る、そういった救済や勇気を与えてくれる一冊になり得るのではないのでしょうか?まさにコミュ力偏重時代に一石を投じる(ロックだけに……ねっ☆)作品が「ぼっち・ざ・ろっく!」なのです。

あと当たり前ですけど全員が全員ロックをしろってわけではなく何か得意なモノを見つけようねって話です。世に出てる本でフィクションじゃないやつって半分くらいタイトル詐欺なんでこういった誇張したタイトルで気を引くのはアリだって学びました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁマジな事を言うとギャグ漫画として読む方が数十倍気が楽だと思います、でもこういった解釈も楽しいですよね。