死因はインターネット

説明しよう!このブログは!オタクの文章力が上達していく様を眺める実録ドキュメンタリーサイトである!

たろたろたろっと〜〜〜♪

TLがタロットの話でちらほら盛り上がったのでタロットの本をサラ〜〜っと読みました。興味深かったのがタロットの歴史について、覚書程度にメモっておきます。

 

タロットは元々はトランプの大元であったカードに大アルカナの22枚を追加した、ギャンブルとか娯楽用のカードでした。遊戯王エクストラデッキみたいなやつ?元になったやつは小アルカナと呼ばれる方ですね。棍棒/剣/聖杯/硬貨の4種×(1〜10の数字+役職4人)の56枚、もろトランプじゃん……タロット占いってこれも覚えるの?めんど〜〜〜(大アルカナだけでも遊べるそうです、というかカンニングしてもいいでしょ)

 

 

その後、タロット占いがなんやかんやで現れ古代エジプトの神話と関連付けることでタロット自体に神秘性を持たせました。ジョジョ3部のせいでタロットはマジでエジプトが起源だと思ってたんですけど違うらしい。権威付けじゃん、ずっる〜〜〜。

 

神秘的になったタロットに、今度は秘密結社「黄金の夜明け団」(なまえがかっこいい)の手によって魔術的、オカルティックな側面が与えられました。タロットよりずっと前からあったカバラ生命の樹の小径と結び付けられたりね。魔術師は創造だったり星が希望だったり、あらゆる精神活動を結びつけられ、タロットは神秘的な霊的世界の地図になりました。多分、金になったんだろうな〜〜〜でもこの段階が一番楽しそう、オタクの血が騒ぐぜ。

 

 

そこからしばらく経ち、タロットというものが一般/大衆化されるまで。そもそもとしてオカルトは科学、もっと言うと産業革命とかいろいろあって科学で成り立った主流な社会そのものに適合出来なかった者達の逆張りとして発達しました。科学、機械、金、労働讃歌、そのような価値観に馴染めなかった根暗が別のベクトルに逃げ神秘に救済を求めたものがオカルトです。自分は哲学も同じだと思ってます、そしてサブカルチャーオタク文化も、というか芸術そのものが。斎宮宗もそう言ってる、あんさんぶるスターズ!の返礼祭:人間賛歌を読んでください。

 

60年代のアメリカにおけるカウンターカルチャー、経済/近代化へのアンチテーゼとしてヒッピーやロック・ミュージックの出現と共にタロットは掘り起こされました。ここで問題となっていたのが秘密結社によってタロットが魔術的体系に組み込まれ、ぶっちゃけ難解であったこと。個人で完結するよう簡略化され、またタロットから何かを得て糧にできるよう自己啓発の側面も与えられ、大衆化しましたとさ、めでたしめでたし。

 

 

元々はタロットは娯楽用のおもちゃということで、占いとかに使う場合わざと深読みをする必要があるんですね。ふーん。

別に偶然引いたカードが全てを物語っている訳じゃなく、カードから得られるメッセージを足がかりにして改めて自分を見つめ直すことで、解決のヒントなりアドバイスなりに気づくのがタロット占いとのこと。何?バーナム効果なの?ペンデュラムに続いてタロットまでも現実に落とし込まれてしまった……

 

タロットのカード達は世界の全ての要素が象徴化されていて、そこからランダムにカードをピックアップして人生を読み取る〜とかタロットのシンボルによって無意識だったりを刺激して内部に眠った可能性を目覚めさせる〜とかオカルト的に面白そうな要素はありました。あれ?後者のってただの自己啓発

無意識とか潜在意識とか、オカルトの為にそろそろユングを勉強する時なのかもしれない、意味のある偶然の一致……

 

 

それはそれとして、キャラにタロットを当てはめたりするのはめっっっっっっっちゃくちゃ楽しいです。黄金の夜明け団になりたかった。

やっぱり根の思想が似通ってるからオタクはオカルトと相性が良いと思うんですよね、哲学も。本人の書いた著書とかは何言ってるかわからねーですけど、頭のいい人が咀嚼したやつとかはサラサラ入ってきて面白いです。

天才と凡人の相克(どうびじゅの蒼紫のおはなし)

相崎うたう先生の『 どうして私が美術科に!?』はこのブログの読者なら皆読んでいるだろう。この作品について、どうしても語りたい展開がある。まだ単行本には収録されていないが二学期を終えた桃音たち5人が通知表を見せ合い、語らう回。そこから描かれた浦上紫苑、そして河鍋蒼の一連の心情だ。

 

そもそも、紫苑は主要5人の中で最も美術を愛し、憧れ、そしてそれに向き合おうと美術科にコマを進めた女の子だった。関西の中学から舞台の高校に進学し、そこで離れ離れになっていた幼馴染の河鍋蒼と再開した。夫婦漫才と揶揄される掛け合いを見せながら、「真面目だけどどこかズレてる紫苑」と「奇想天外だけど着実な蒼」の対比が浮き彫りになって行く。

 

そして件の回、学期末の通知表、美術の評定をきっかけに紫苑は蒼が自分には無い才能を持ち合わせていることに、嫉妬に近い情を抱いていた事を桃音に告げる。回をまたぎ、場面は紫苑×蒼のお泊まり会へ移り変わる。紫苑の憧れの画家であり、彼女達の学校の教師も勤める蒼の母はそれを個性として諭すのだが、ありきたりとも言えるその言葉は天才の壁に打ちのめされた紫苑には届かない。凡人は天才に一生手が届かないのか?

 

 

実際のところ、紫苑にとって蒼が天才に見えていたのは彼女が中学で別れた紫苑に会う為に努力を重ね、美術の実力をつけていたからだった。芸術は成果物から判断するしかない故に天才と努力を上乗せした秀才の違いは曖昧なのだ。

 

『どうして私が美術科に!?』における紫苑の「どうして」は美術への憧れだ。しかしその「どうして」は憧れの美術の前にそびえ立つ天才との壁によって消えかかっていた。

蒼の「どうして」は美術に憧れた紫苑への憧れだ。しかしその「どうして」は同時に憧れの紫苑と自分とを隔てる壁そのものになっていた。

 

美術に、母に夢中であった紫苑に振り向いてもらうため、彼女に近づくために努力した自分の美術が、逆に彼女を苦しめ自分から遠ざける呪いになっていたことを知る。天秤の両側に乗せられた二人の残酷な関係性、これほど恐ろしいことがあるだろうか。紫苑と河鍋母の会話を盗み聞きしていた蒼の心情は独白されなかったものの、その辛さは彼女に貼られたトーンが物語っている。

 

幸い、この件は蒼の努力をカミングアウトされて丸く収まった。しかしその根本的な解決はまだ成されていない。ここが『 どうして私が美術科に!?』の油断出来ないところだ。

 

蒼が純度100%の天才ではないと言われても、紫苑は未だ天才とどう向き合うかの結論は出ていない。そもそも母の血を受け継いだのもあって、蒼の作品から「才能」を否定することは出来ないだろう。来年も、紫苑を蝕む呪いになるかもしれない。この時、彼女らはどう向き合っていくのだろうか?

 

ヒントなら与えられた。蒼の母の言葉をそのまま解釈すれば、紫苑は天才の背中を追うのではなくやがて自分だけにしかできない美術を見つけるのだろう。この一件を通じて、蒼は紫苑のためではなく自分のための美術へと舵を取りはじめた。奇しくも似たようなゴールで、また蒼が一歩リードする形になってはいるが、そのきっかけをくれたのは他ならぬ紫苑であることに運命を感じずにはいられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみにこれが収録される単行本が出るのは恐らく来年の5月頃だ。3ヶ月前のMAXを読んでないやつ!!!!!!!!ざまぁみやがれ!!!!!!!!!!!!!!あーーーーー単行本派にマウントとるの楽しーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!

千歳とせ名ツイート総選挙8月編

平成最後の八月がおわるので例の如く千歳とせ名ツイート総選挙8月編です。あと1時間でコメントしなきゃいけないんですけどストロングゼロの長い缶の奴を飲んでしまいました。誤字脱字を許す力を養ってくださいね。

 

 

これめちゃくちゃやりたい、というかナイフを使って遊びたいんですよね。職業選択の自由があったらナイフ投げ師になりたかった。

 

自分のツイートは先人の縮小再生産で出来ている。その先輩もブログをやってるんですけど最近更新してないのかなしいな。

 

こうやって斜に構えているのは自分の悪い癖だとわかっているんですけど。

 

これに関してはTLに流れてこなかったんで無かったんだろうな~~~~って思います。絶対バズるのに何で?????

 

コミケ行った帰りの感想です。ナイフ投げ師になって国際展示場駅の広場で演目したら捕まるんでしょうか?

 

なんでなんだろうな……?

 

 分かれ、メイドさん下着は特別です!(きららキャラット連載中)の単行本が出たら推すので今のうちに読み返しておいてください。

 

テトリスで一番好きなピースが1×4の水色のアレな人は甘えていると思う。テトリスの本懐はいかに隙間なく詰めるかの試行錯誤、そこにおける凸ピースは汎用性がめっちゃ高くていいねって話。

 

 

まじで考えないんですか?????もっとTwitterを本気でやってほしい。紫色は赤と青という代表的で相反する色を混ぜた先の姿というのもありめちゃくちゃ推してるんですよね。

 

今まで堅パン食べてみたい欲はあったんですけどまさかベビーフードでこれが実現するとは思ってもいませんでした。赤ん坊度外視の硬さで成人にもオススメですよ!!!!

 

キートン山田の素顔見て思ってたのと違う~~~~!!!ってなったんで時間のある人は是非やってみてください

 

ショタ千歳とせエピソードノルマです。

 

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まじで行ってみたいんですけど。温泉博士いませんか?

 

これは絵描きなら一度は思うことだと思います、本当に。画力の高い乳首に囲まれる恐怖味わったことありませんか?

 

これは斜に構えたツイートその②

 

戒名のつけ方なんですけどめttttttttっちゃくちゃ簡単でビビりました。ハンドルネームの流れで自分の考えた戒名名乗りたくないですか?いや死後の世界はあんまり信じてないですけど……

 

 

9月は崖の近くの温泉旅館に泊まった記事を上げたいです、まじで。最近温泉行きたすぎて旅館の夢ばっかり見る。ただだいたいハプニングが起こる。この前見たのは途中でトロッコに乗った。

 

 

 

めでたしめでたし

夏休み末の苦悩、薄っぺら原稿用紙

小学生の頃、読書感想文が書けなかった。

今でこそTwitterやブログで漫画の感想を書いてはいるが、これは別に義務教育の文脈で求められている読書感想文とは違う、エンタメ寄りの何かだ。似たような構成で読書感想文を書いて提出したらその先に待つのは担任から体罰の執行。

 

 

教師からウケる読書感想文の構成はだいたいこうなってるらしい……自分は勿論できなかった。

 

◆この本を読んだきっかけ/あらすじ

◆印象に残ったシーン/台詞

◆この本を読んでどう自分に変化があったか

 

 

ショタ千歳とせはあらすじでハチャメチャに文量を稼ぎ、残りを印象に残ったシーンの羅列とちょっとの感情で埋めるクソガキだった。最後に「また、動物園に行きたくなりました。」とか書いてた。そもそもこの本を読んだきっかけも「課題だったから」の7文字しか埋まらないの辛すぎる。

 

Twitterとかでやってるのは好きなシーンを挙げながら「ここ良くないですか????」とか言っちゃうやつ。楽しい。感想文の大トロだ。SNSは共感の為のツールなのでこれ以外の要素は要らない。ここにおける共感とは作者から与えられた餌をパクパク食べる読者同士の共感のこと。

 

問題は「自分にどんな変化があったか?」だ。これが書けなかった、今も書けないと思う……いや……ちょっとは書けるかもしれない、小学生レベルのやつを。

 

どうやら読書感想文というのは自分の体験談をつらつら書いて、だから登場人物のここに共感しました!ぼくも(なまえをいれてください)のように(諦めないとかそーゆーキャピキャピしたことがはいる)ようにしたいです!というのがウケるらしい(暴論)。教師はトロじゃなくて赤身が食べたいのか。

 

 

無理だ〜〜〜〜〜〜!!!

 

 

共感する以上、今までの人生から地続きになった根拠があるんじゃないの〜〜?って事なんだろう、わかってはいる、いるけど多分本心から書くことは難しい。自分を絡める必要無くない?一生FF外から失礼してろ。

自分の人生が薄っぺらくて、登場人物と重ね合わせるだけの経験が無いのもある。と言うかたかだか小学生風情が十人中十人そんな経験ある訳ねぇよ。作者だったり主人公だったり、そういった他人の人生を追体験してなんやかんやのバリエーションを増やすのが読書教育じゃないの?違う?違うか〜〜

若いうちから波乱万丈な経験を積んでいるのか感受性が豊かすぎるのか、エピソードを捏造してるのか、どっちにしろそんな小学生がいっぱいいるの?こっわ〜〜〜

 

 

だがそれ以上に、そもそも読書で変化する必要があるのかと思っちゃう。

そりゃあ確かに物語を読んで憧れとか目標に近い感情を抱いたことはある……あるけどその対象は物語の裏にいる作者の想像力とかそういったクリエイター目線のアレだ。

 

そもそも物語はエンタメで、娯楽だ。高尚である必要あるのか?

 

自分は自己と物語とを切り離して、構造とか、伏線回収とか、登場人物の関係性とか、そーゆーのを楽しみながら読んでいる……んだと思う。主人公Aがそこにいて、こういう動きをした。その行動原理はこのシーンから来ており、ここに繋がって結果的にこうなった。そういった情報を処理しているだけで楽しい。

 

そこで完結してるからそれ以上自分のフォルダの深いところに読書体験が保存されない。だからそこの深掘りが出来ずにあらすじをなぞっただけの感想文が出来上がる。

 

ガキながらに司馬遼太郎坂の上の雲を読んでいた時期があった。当時行ってた塾の塾長に「坂の上の雲は社長になる奴が読む本だ〜」みたいな事言われて褒められたが、NHKで実写版がやってて展開が知りたかったから読んだだけだ。生き方とか哲学に何ら影響を受けた実感は無い、ゴールデンカムイを読む時の事前知識が増えただけだ。

 

物語における天才の生き様を追体験したからといって、自分は別に天才じゃないし……まぁそいつの生き様から掠めとれる1ピースだけでも取り込んで自身を変化させろって事なんだろうな……今納得した……え〜でも小学生にソレは酷じゃない?

 

 

何というか、作者の作った完璧な世界をダシにして無理矢理自分語りするのが解釈違いなのかもしれないな〜って。好きな漫画をチョイスして、ここが凄いからぜひ読んでみそ!!って書くだけで花丸満点貰える世界だったらよかったな。

 

 

めでたしめでたし

子供の心、最後の晩餐

ドリンクバーで初めにメロンソーダを選ばない人間は子供の心を忘れてしまったつまらない奴だ。

 

これを持論として主張していたが「ジンジャーエールいっちゃいますね」とか「や、山ぶどうスカッシュですかね」とか「炭酸飲めない」とか言われて共感を得られなかった。炭酸飲めないのはごもっともだと思い、以降これを人に言うのは止めるようにした。

 

 

 

今日のことだ。外でご飯食べながらブログ書くか……今月全然書いてないし……と思い最寄りのサイゼリヤに行った。このブログはドトールサイゼリヤ以外の飲食店は出てこない。

 

サイゼリヤに行く時はいつもパスタとピザを真っ先に選択肢から外す。いつも頼むのはハンバーグか米か小エビのサラダだ。複数人でサイゼリヤのテーブルを囲む時、ペペロンチーノのダブルサイズを頼む人を見て内心変な選び方だな……と思っていた。

 

 

しかし、今日は違った。

 

トマトの酸味と角材のようなゴロゴロベーコンに心を奪われ、パルマ風スパゲッティを頼んでしまった。人間は好奇心に勝てない。もちろん、ドリンクバーも一緒に注文した。

 

メロンソーダを飲みながら、TLを眺めて感情のあるCPのイラストにハートを飛ばす。そうこうしないうちにスパゲッティが来た。スパゲティじゃなくてスパゲ“ッ”ティなのがムカつく、気取ってんじゃないぞ。

 

パスタ自体を食べるのが久々だと思いながら、皿に鎮座する細い麺の集合体に軽くテンションが上がる。右手にフォーク、左手にスプーンを構え、スプーンを壁にしながらフォークにパスタを巻き付けていく。

 

 

この時自分は絶望した。

 

 

今まで自分はパスタの細長い形に心を踊らせていた。しかし、今フォークの先にあるものは何だ?パスタの本質である細長い形は面影もない、丸まった何かがそこにあった。食べやすいようにする為、パスタとしての個性を殺された小麦とトマトとベーコンの塊。

 

いつからだろう、パスタを巻くようになったのは。

いつからだろう、口が汚れるのを恐れてパスタを極端に静かに食べるようになったのは。

いつからだろう、麺を麺として楽しめなくなったのは。

 

細長く食べづらいパスタを純粋に楽しむ、食べる時の体の動き自体を楽しんでいた子供の自分は既に死んでいた。メロンソーダを注文し、自分が子供のままでいると思い込んでいた人間の哀れな末路がスプーンの鏡面に反射した。

 

慌ててメロンソーダを飲み干し、ドリンクバーへ急ぐ。子供の心を落としてしまった事に気づいた今、メロンソーダの鮮やかな緑色は自分には似合わない。

そうだ、トニックウォーターにしよう。ジンやウォッカを割る為にある炭酸水。

 

炭酸の泡が浮かぶ無色透明の液体を口に含む。色を失った自分を戒めるかのように柑橘のほろ苦さが舌の上で弾けた。

機械の反乱

今まで言ってはいなかったが自分は喫煙者だ。そして平和を愛する、故に吸う銘柄はピースLights。喫煙所のことはサンクチュアリと呼んでいる、新宿東南口付近の喫煙所は屋根があってベスト・オブ・サンクチュアリのひとつである。

 

 

例の如くドトールコーヒーに行った日のことだ。

 

アイスコーヒーMサイズを注文し、グラスひたひたまで注がれた真っ黒ジュースが手渡される。この前ガムシロとミルクを1つずつ取ったつもりがミルクを2つ取っていた苦い記憶を思い出し、「ヨシ!」と言いながらガムシロを確保する。

 

右手にひたひたのアイスコーヒー、左手にガムシロとミルクと鞄、早くテーブルにこれらを置いてピコ太郎したい……そう思いながら席へ向かって足を動かす。二足歩行は人類の進化の結晶だ。

 

だいたいの喫茶店は喫煙ルームと禁煙ルーム間を自動ドアで区切っている。サイゼリヤは区切りが甘いのに。

喫煙ルームから出る人とすれ違う、自分はぶつからないよう脇に避ける、これが江戸しぐさだ。

さっき出た人が自動ドアのボタンを内側から押してくれたおかげでドアは開いている、物を持ちながらボタンを押すしぐさは傍から見る時滑稽なので道化しぐさをしなくて済む、ラッキー♪と思った。

 

ボタンを押せば左から右へと開く自動ドア、これは豆知識だが左から右へ開くドアは閉じる時右から左へガラス戸がスライドして迫ってくる。

 

ここまで言えば何が起きたかは察しがつくだろう。自動ドアをくぐり抜けようとした自分の右腕に制限時間を迎えたドアが迫り……ピコ太郎した。

 

今まで何度か自動ドアに攻撃されたことはある、友人の目の前でアタックされた時はちょっと痛いけどウケがとれておいしいなと思ったが今回は違った。その時は何も持ってなかったし。

腕への攻撃は肘、手首、指、あらゆる関節を通り右手にホールドされたアイスコーヒー・ひたひた・グラスを振動させる。表面張力の限界を超えたコーヒーは地球の重量に負け、ビチャ……と情けない音を立てて地面を濡らした。MサイズがSサイズになった。

 

目の前の席にいたババアがこっちを見る、やめろ。そして何も見なかったかのように目を逸らす、そうだ、わかってんじゃねぇか。

 

 

早急にリカバリーする為カウンターにUターンした。以前ハンバーガーショップで1階から2階へ上がる時につまずいてポテトをぶちまけた経験があったからだ、「すみません、コーヒー床に零しちゃいまして……」と伝える。「服にかかってたりしませんか?」と言われ、気を遣わせたことを心の中で謝罪した。悪いのは自分……いや自動ドアの野郎なのに……

 

ペーパータオルをいっぱい出して床を拭く兄ちゃんの姿、飲食店の店員に地べたを触れさせてしまった申し訳無さが積もる。その姿を見ながら啜ったコーヒーは人類の機械への敗北の味がした。

 

 

今この瞬間も、どこかで自動ドアは油断した人類を襲っているだろう。ターミネーターの世界は目前に迫っている。人類に敵意を持つ機械を滅ぼさぬ限り、世界に平和は訪れない。そう思いながら、平和の煙を肺に取り込んだ。

棺とは何か?:棺担ぎのクロ。〜懐中旅話〜の結末について

きららオタクとして白状しなければいけないことがあるのですが、5月に最終回を迎え先月末に最終7巻が発売されたきゆづきさとこ先生の『棺担ぎのクロ。~懐中旅話~』について、自分は終盤辺りの展開が連載誌上で読むのが非常に大変でサラッと流し読み程度に抑えていました。

 

というのもこの作品は他の作品と比べメチャメチャのメチャに高いリテラシーを要求されるんですよね。きららでストーリー色の強い作品というと最近では『うらら迷路帖』や『まちカドまぞく』が挙げられますが、うららは2~3巻ペースで、まぞくは1巻13話ごとに山場が設けられており、処理すべき情報の量が整理されていました。しかしことクロに関しては7巻分のストーリーが一つの結末に向かって収束しており情報が錯綜……そもそもラスボスの意図が複雑だったり、シリアス回の間にクールダウン的にほのぼのした話が挟まれて設定が頭から抜け落ちたり、休載したり……とまぁ月刊連載で読むのに向いてないわ!と思ってしまい「これは単行本でまとまってからしっかり読み直した方がいいですね」となってたんですよね。

 

それでもって最終巻を聖地COMIC ZINで購入し、身を清めて既巻分を読み、万全の状態で彼女の旅の行く末を見届けて、「わ~~~満足!!ありがとうございます!!」で済めばよかったんですけど……この作品、テーマが難しいじゃないですか。みんなネタバレを気にしているのか読んだだけで満足しちゃってるのか分からないけどあんまり核心を突いたツイートを目にしない、勿体ない……「ここはこうですよね!」とか言いたい……きゆづき先生の思考を少しでも理解したい……

 

 

と、いうことでアウトプットを通じた思考の整理という面も兼ねてだいたいきゆづき先生はこんなことテーマにしてたんじゃないかな~~~なんてことをつらつら書き連ねていきます。ネタバレ上等なんでマジで未読の人は読まないでください、PV数に貢献したら帰れ。

 

 

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